リトル・フォレスト 冬・春

その土地で生きていく、ということを自分で選ぶには、納得して選ばないと、その土地の人たちに対して失礼なんじゃないかって。

静かな時間の流れの中でも、生きていくためにしなければいけない仕事はたくさんあって、そしてそれは本当の意味で、自分の命と直結していて、自然とともに生きる、ということの意味を、初めてちゃんと理解できたような気がした。
社会はどんどん進歩していって、暮らしはみるみる豊かになって、自給自足の生活なんて、ここ東京では、ほとんど適わないけど、でも土とともに生きることは、生命体としての本能だと思う。

どんな世界で生きていたって、生きる意味について考えるのは、人間として当たり前のようで、そこに言語と他人があれば、たちまち相容れない関係性が生まれて、自己と他者との比較の中で、自分自身とは何者なのかを問う営みが始まる。

そんなことを考えている私という一人の人間の存在は、とってもちっぽけで、それでも、大きく見せようとみんな必死に生きていて、自分の例外なくそのうちの一人で、でもそんな思いの集まりが、今の社会を、世界を作り上げてきたんだって考えると、なんだかとてつもなく荘厳なような、それでいて、どこか可笑しくて笑えて来る。自分も人間として、思うつぼなんだ。もしかして、誰かが地球とか宇宙とかを外から眺めているのかもしれないと考える。

生き物として、植物も、動物も、人間も、子孫を残すために生きている。その力は、とてもとても大きくて、かけがえのないほど輝いている。私自身も、その輝きの一つとして生まれてきたんだということを、ときどき忘れてしまうことがある。自分だけがそうした営みから外れた世界で生きていて、なんでもお見通しなのさって面してふんぞり返ってる。もうすぐ26にもなるっていうのに、自分中心で世界が回っていると勘違いしてることも多くある。それくらい、自己中じゃないと、周りを巻き込んで何かをするってことは、できないのかもしれないけれど。

映画の内容とは、大きく話が逸れてしまったけど、夏・秋と合わせて、とても面白かったです。松岡茉優さんがきれいでした。

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# by ragaru | 2018-09-18 22:57 | movie  

リトル・フォレスト 夏・秋

自信をもって話せることは、自分が経験して、肌で感じて、考えて、学んだことくらいしかない。

ジョン・デューイの経験教育は、日常の生活に根差した学びを教育の根本においた。自給自足の生活を離れて久しい都会に生きる私たちにとって、生活が学びに根差している、という感覚は、あまり感じることはないかもしれない。
ほんの数十年前、百年ちょっと前まで、私たちのご先祖様は、土に触れた生活をしていた。土に触れることは、人生の一部だった。土や水や草木や虫や動物たち、そしてその地域で同じように生活をしている人々。朝から晩まで、さまざまなものに触れ、自然や人と会話をし、その場所で生きている私が、自然の環境に適応して生きていくことが、自然とともに生きるということ。

現代の建物や街並みにある自然は、景観のために植えられた、人工的なものであって、それは、自然とともに生きていると言えるのだろうか。

自分の手で育てた野菜を料理して食べ、自分の労力によって育った食物を食べ自分の生きるエネルギーにする。畑仕事を通して、野菜の育て方、自然との付き合い方を、経験しながら、肌で感じて、考えながら学んでいく。誰かに何かを教わったって、知識だけため込んだって、それが実際に学んだ通りにできるとは限らない。稲刈り一つ取ったって、鎌の使い方をいくら学んでも、刈るときの体の使い方や、刈る量や、刈り稲の束ね方や、ほかにも色々な要素があって、その一つ一つを言葉で聞いて理解することは、とても時間がかかるし、実感が湧かない。百聞は一見に如かず、百見は一労作に如かず。聞くより見る、そして見るよりやってみる。自分の体を動かして、汗水流して苦労して、初めて得られるものがある。

教育は、語学や科学を学ぶことに終始するものではなく、それよりも大切なのは、人間も自然の中を生きる生き物なのだという自覚をもって、自然とともに生きることの素晴らしさや過酷さを自分自身で経験して、学びながら生きていくということ。料理をするには数学が必要になるし、野菜を育てるには植物の成長の過程を理解することも大切になる。相手に生活の知恵を伝えるためには言葉を知らなければいけないし、同じ人間同士、上手く折り合いをつけて生きていくには、哲学とは何かを知っておく必要がある。

自分の人生を見つめ、これまでの道を振り返り、少しでも自然に触れてきた経験を思い出してみると、どれも綺麗に輝く思い出として胸の中に残っている。これから先の未来を生きる子どもたちが、自然と触れずして大人になることのないように、少しでも多くの経験をしてもらいたい。そんなことを考えたり感じたりしながら観た映画でした。

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# by ragaru | 2018-09-02 21:58 | movie  

flowers for algernon

どうしても、書かなければならない。書き残しておかなければならない感情の記憶がある。この気持ちを文字として形に残しておかなければ後悔する。

「アルジャーノンに花束を」を読んだ。
単純だろうが何だろうが、素直に涙が止まらなかった。帰りの電車で、残りの頁を途中で終わらせてしまうのが惜しくなって、カフェで一気に読み通した。何がこれほどまでに心を揺さぶって、人目を憚らずに目を潤ませ、帰路の自転車に乗りながら一人咽び泣いていたのか。

ただ単なる読書感想文にはするまい。ここは自分自身の心の鏡である。文体が学んだものに影響されているのも、自分がここから確立され直しているのだということを感じさせる。
今いる境遇から、想いを寄せる貴女への気持ちから、今学んでいること、この先学ぼうとしていること、それら全てが、読んでいる自分自身に暗示を示しているような気がしてならなかった。
主人公に共感し、境遇に同情し、普段目の前にしている子どもたちが、この先どうなっていくのか、彼らの感情に寄り添うということは、果たしてどういうことなのか。何が必要で、彼らには何をしてあげればいいのか。彼らは何を望んでいるのか。そして私はこれまで、何をしてあげられたのか。


ただただ、悲しみが込み上げてくるのは、自分に酔っているからなのだろうか。もしそうであれば、あまりにも気障すぎるし、あまりにも陳腐な感情である。ただこの胸の奥深くから染み出てくるような、湧き上がってくる悲哀的な感情は、そんな安っぽいものではない。自己憐憫、彼に同情するのと同じように、自分自身にたいしても同じ思いを抱く。

私には、しなければいけないことが山ほどある。まだまだ足りない。何一つ足りていない。
ようやく気付いた。こんなところに立ち止まっているわけにはいかない。



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# by ragaru | 2018-08-29 22:28 | Daily life  

初恋

気がつけばもう夏になった。

今年の夏はいつにも増して茹だるような暑さで、いつもなら日焼けのために昼休みにはプールに入っていたけど、わざわざこの暑さの中ほとんどぬるま湯状態になったプールに入るほど物好きではないので、専ら地元の市民プールまで自転車を20分ほど走らせて、一日2000mは目安に泳ぐようにしている。

世間では、夏休み。もちろん我々も、夏休みである。とはいえ、平日は出勤日だし、この時期だからこその研修もあって、なんなら土日は部活があったり、なんだかんだで気がつけば夏なんてとっくに過ぎ去ってしまうような気がして、今から寂しくなっている。

会いたい人に会いたいし、楽しくお酒が飲みたいし、海に行ったり、花火をしたり、夏らしいことをしてみたい。


話はここ最近の出来事に移って、

今年度から新しい部活の顧問になって、ついこのあいだ審判講習会に行ってきた。場所は、東京学芸大学。
我が物顔で、ちょっとは見慣れていた敷地内を自転車で通りながら、
「ここで4年間を過ごしていたらどうなっていたんだろう」
と思っていた。
今があるのは通っていた大学のおかげであることには違いない。だとしてももし、ここで4年間を過ごせていたら。もの惜しさや寂しさを感じながら、その日一日を過ごしていた。


***
駅から家までの道の途中で、お祭りがあった。何処から集まってきたのか分からないほどの自転車、人の数。小さな浴衣を着た子供たちが楽しそうに友達同士とはしゃいでいた。そのときふと、自分の幼い頃の記憶がすっと甦ってきて、懐かしい気持ちになった。親から小遣いをもらって、友達と待ち合わせをして、ラムネを飲んで、焼きそばを食べて、射的や輪投げなんかをして、あとはお決まりの鬼ごっこ。好きだった女の子も来てないかなと何気無く辺りを気にしてみて、見かけた瞬間、探していたと気付かれないように、わざと気付いていない素振りをして、結局その子は一緒に来てた女の子の友達と、人混みの中へ消えてしまう。さっきまでその子がいたその景色を眺めても、何処か色褪せたように思えて、胸が少しきゅっとなる。

裏手の路地に入ると、さっきまでの提灯の灯りも届かない。駐車場には割られたラムネの瓶、しぼんだオモチャの剣、光るプラスチック製の腕輪。太鼓の音が空しく響いてくる。ハレとケの狭間のような、夢と現実の境界のような、そんな空間なんじゃないか、今になって、そんな風に考えてみる。


***
今年度の挑戦として、放送大学の大学院である資格取得のために勉強を始めた。つい先日単位認定試験を終えた。合格しているか、少し不安ではある。
勉強をしていると、自分が賢くなったような気がしてくる。少しずつ、自分が強くなっているような気がしてくる。そんな簡単に自己肯定感が高まるような人間だっただろうかと、以前の自分からしたら不思議なくらいだ。
これまでしてきた勉強は、自分自身の社会的地位を確保するためのものだったけど、今の勉強は、その地位の上に、創意工夫を凝らした作品を造り上げていく、建造物を建設していくような感覚。資格マニアの人の気持ちも分かる気がする。ただ、資格をもっているだけじゃまるで意味もないし、取る必要がない。俺が今取ろうとしている資格は、中途半端な気持ちでは取れないし、安易な気持ちで取るべき資格でもない。そして俺の場合は、その資格を取ったとして、専門職としていく、ということは今のところは考えていない。今の仕事で、上手く有効的に活用していくことがねらいであって、それがこの先、何らかの形で役に立つことがあると、思っている。明確な展望は見えないが。


***
夜更かしは、心と身体に負担がかかる。特に一人でいるときは。
胸に、小さな穴が空いている。覗けば青い星空が広がっていて、眼下には月明かりに照らされた海原が広がっている。小舟がひとつ浮かんでいて、老人が雲ひとつない夜空に浮かんだ満月を眺めている。その老人が何処から来たのか、どうやってきたのか、誰なのか、何もわからない。でも、確かにそこにいる。





会いたい、と思える人がいる。
会いたい、と言ってくれる人がいる。
求められる、必要とされることに慣れていないから、誰かに誘われると、とても嬉しくなる。
そんなときは、心も満たされる。

7月がもう終わろうとしている。今年もあと5ヶ月。時の流れに置いていかれないように、時間と向き合いながら、過ごしていきたい。
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# by ragaru | 2018-07-31 00:24 | Soliloquy  

アイネクライネ

7年前の今日、14時46分。

テレビゲームをしていた。地震が起きて、いつもと違う揺れだということに、揺れ始めてから数秒経ってから気付いた。
慌てて着の身着のまま外に出て、家の目の前の街灯が揺れている様子を見上げていた。あたりにも家を出てきた近所の人たちがいた。
振り返ると家の建物自体も揺れていて、地面がごーっとなっているように聞こえた。ガタガタ何かがぶつかるような音もしていた気がする。

このままもっと大きくなって、地面が割れたり、家が傾いたり、電線が切れたりするのかな、なんて恐怖を覚えながら立ち竦む。
暫くして揺れは収まって、普段通りの日常に戻った。
家に入ると、茫然とした。
部屋の本棚は倒れ、中のものがすべて散乱していて、母の化粧箱も床に散らばっていた。
幸い冷蔵庫とか、もっと重いものは倒れていなかったけれど、大惨事の一歩手前くらいにはぐちゃぐちゃになっていて、改めて今回の地震はいつもとは違うということをその光景を見た瞬間に理解した。
まず真っ先にテレビをつけ、そのあとTwitterを開いた。今の地震の震源地、震度はいくつだったのだろう。
テレビ画面が映し出していたのは、震度7という文字、福島第一原発、その他相次ぐ被災状況の中継映像。
地震から何分後か覚えていないが、石油コンビナートの大爆発の映像が飛び込んできた。

どこか外国の戦争の映像なのかと一瞬思った。映画のワンシーンかのような、現実感のない、フィクションのような感覚。
それから、福島第一原発が爆発した。


被災した人々たちにとって、あの地震から、普段通りの日常は、なくなってしまった。
あれから7年。

人間は、忘れる生き物で、辛い記憶や思い出は、薄れるように脳の機能として作られている。
それでも、同じ過ちを繰り返さないように、人間には学ぶ力が備わっている。

被災した際に生き延びていく知識。
大惨事によってとてもとても深い心の傷を負ってしまった人に寄り添い労わる心。
教訓として、この経験を、後世に伝えていかなければならない。それが「先に生まれた者」としての役目。

今日、あの日と同じように晴れた天気の中、7年前の国立後期試験を控えていた私とは、立場は違う。
でも、心は、精神的には、果たしてどれくらい成長したのだろう。

20代も後半戦、早くも最初の半年間が終わろうとしている。

自分だからできることを、少しずつ、一歩ずつ、着実に。

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# by ragaru | 2018-03-11 21:30 | Soliloquy