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リトル・フォレスト 夏・秋

自信をもって話せることは、自分が経験して、肌で感じて、考えて、学んだことくらいしかない。

ジョン・デューイの経験教育は、日常の生活に根差した学びを教育の根本においた。自給自足の生活を離れて久しい都会に生きる私たちにとって、生活が学びに根差している、という感覚は、あまり感じることはないかもしれない。
ほんの数十年前、百年ちょっと前まで、私たちのご先祖様は、土に触れた生活をしていた。土に触れることは、人生の一部だった。土や水や草木や虫や動物たち、そしてその地域で同じように生活をしている人々。朝から晩まで、さまざまなものに触れ、自然や人と会話をし、その場所で生きている私が、自然の環境に適応して生きていくことが、自然とともに生きるということ。

現代の建物や街並みにある自然は、景観のために植えられた、人工的なものであって、それは、自然とともに生きていると言えるのだろうか。

自分の手で育てた野菜を料理して食べ、自分の労力によって育った食物を食べ自分の生きるエネルギーにする。畑仕事を通して、野菜の育て方、自然との付き合い方を、経験しながら、肌で感じて、考えながら学んでいく。誰かに何かを教わったって、知識だけため込んだって、それが実際に学んだ通りにできるとは限らない。稲刈り一つ取ったって、鎌の使い方をいくら学んでも、刈るときの体の使い方や、刈る量や、刈り稲の束ね方や、ほかにも色々な要素があって、その一つ一つを言葉で聞いて理解することは、とても時間がかかるし、実感が湧かない。百聞は一見に如かず、百見は一労作に如かず。聞くより見る、そして見るよりやってみる。自分の体を動かして、汗水流して苦労して、初めて得られるものがある。

教育は、語学や科学を学ぶことに終始するものではなく、それよりも大切なのは、人間も自然の中を生きる生き物なのだという自覚をもって、自然とともに生きることの素晴らしさや過酷さを自分自身で経験して、学びながら生きていくということ。料理をするには数学が必要になるし、野菜を育てるには植物の成長の過程を理解することも大切になる。相手に生活の知恵を伝えるためには言葉を知らなければいけないし、同じ人間同士、上手く折り合いをつけて生きていくには、哲学とは何かを知っておく必要がある。

自分の人生を見つめ、これまでの道を振り返り、少しでも自然に触れてきた経験を思い出してみると、どれも綺麗に輝く思い出として胸の中に残っている。これから先の未来を生きる子どもたちが、自然と触れずして大人になることのないように、少しでも多くの経験をしてもらいたい。そんなことを考えたり感じたりしながら観た映画でした。

by ragaru | 2018-09-02 21:58 | movie  

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